「許さ・・・ない・・・」

男は血が滲むほどに唇を噛み締めた。

「許すものか・・・」

あいつ、あの男。
自分をここまで苦しめ、貶めた男。

「道長・・・おのれ・・・」

自分を失脚させたあの憎い男。
復讐してやる、復讐してやる。

「いや・・駄目だ・・・」

あの男には、強い守りがある。
希代の大陰陽師、安倍晴明という最強の守り。

道長を害せんためには、まずはあの陰陽師を。
























それを願うばかり。























「昌浩、今日は何を食べましょうね」

母親に手を引かれ、小さな昌浩はとてとてと一生懸命に歩いている。
その横を雑鬼たちがコロコロと笑いながらついてくるが、母はそれらが見えないのだろうか。
先ほどから母に雑鬼たちが蹴られはしまいかと、昌浩は心配でしょうがないのだが。

「もも!」
「桃?まぁ」

息子の元気な返答に、露樹がクスクス笑った。

「そうですね、桃も買って・・・」

ざわっと母子の前方が騒がしくなる。
どけ!この野郎!といった怒声が聞こえてくるから、何か揉め事でも起きたのかもしれない。
露樹は足を止めて道を変えようとした。
幼い子供がいる中で、騒ぎに巻き込まれたらことだと思ったからだ。

「昌浩、先に向こうへ・・・」

露樹が幼子を促した瞬間、前方の人垣が突然崩れた。
わっと青褪めた人々が逃げてくる。
見れば言い合っていた男たちが、派手に殴り合いを始めたらしく、巻き込まれた者が倒れているのが見えた。

「ま、昌浩っ」

露樹は慌てて幼い息子を抱き上げようとした。
けれどもそれより早く、平常心を失った人々が、どっと押し寄せてくる。

「っ・・・・」

大勢の人々に巻き込まれ、よろめいた露樹はその場に倒れこんだ。
何人もが同じように転んでいる。
倒れながらも露樹は必死に手探りで息子を追い求めた。
こんな所に巻き込まれたら、昌浩が。
しかし傍にいたはずの子供の身体はどこにもない。

「昌浩・・・昌浩っ!?」

騒ぎが収まり幾人かが倒れる中、露樹はよろめきながら立ち上がる。
ぶつけた膝を摩りながら、周りを見渡せど息子の姿はない。

「昌浩・・・返事をして、昌浩!」

あの人の波に浚われたのか、踏みつけられて気を失っているのか?
露樹は青褪めた。

「昌浩!!」

けれども応える声は、いつまで待ってもなかった。













騒ぎを起こした二人に金を渡し、男は二人に丁寧に礼を述べた。
二人が騒ぎを起こしてくれたお陰で、それに紛れ目的のものを手に入れたのだ。
金など幾らでも渡す。
それは落ちぶれた彼にとって、もうなけなしの財産であったが、そんなことはどうでもいいのだ。
だって自分はもうすぐあの道長から全てを奪うのだから。

うっそうと笑む男の脇には、小さな子供が抱えられていた。












露樹の手当てを終えた吉昌は、取り乱した妻を上の息子たちに任せ、父親の部屋に顔を出した。
希代の陰陽師と称される父は、難しい顔で式盤を睨んでいる。

「父上」
「・・・吉昌か・・露樹の様子は?」
「傷の方は大したことはなく・・ただひどく取り乱しているので、成親たちが傍に」
「そうか・・・」

日も暮れた頃、仕事を終えた吉昌が邸に帰り着くと、いつも夕餉の仕度をしている妻と末息子の姿が見えなかった。
今日は所用で出かけていた父・晴明も、息子たちも帰邸した。それなのに二人が戻らない。
流石に心配になってきた一同が、探しに出ようかと言い出した時だ。
安倍の者にとっては馴染み深い雑鬼たちが、ぎゃぁぎゃぁと大騒ぎで邸に押しかけてきた。

「大変だ大変だぁ!!」
「昌浩がいないんだ!」
「露樹がボロボロなんだ!」
「怪我してるんだよぉ!」

口々に叫ぶ雑鬼たちの話を理解するやいなや、吉昌たちは彼らに案内されようやく露樹を見つけた。
昼間からずっと姿を消した息子を探していたのだろう。
ボロボロになった妻は、吉昌たちを見るなり気を失ってしまった。
それから妻を邸に連れ帰り、ひとまず事情を聞いたのであるが。

「先ほどこのようなものが届いた」

晴明が表情を変えずに、吉昌に一枚の紙を差し出した。
二つに折られた紙には、流麗な文字が並ぶ。

“貴殿のお孫を預かり申し候。右京の外れにある邸へ参られたし”

「父上っ・・これは・・」

ざっと青褪めた吉昌が駆け出そうとするのを制し、晴明が立ち上がる。

「どうやらご指名はわしじゃ。わしが行く」
「しかし・・・」
「心配はない。露樹の傍にいてやらんか」

早々に仕度を整えた晴明が、さっと室を出て行く。
その後に続く気配を正確に捉え、吉昌は眉を顰めた。

「騰蛇殿・・・?」

応じるように強まった神気は、恐ろしいほどに研ぎ澄まされている。
怒っているのだ。

吉昌は苛烈な闘気にふるりと身を震わせ、はぁと一つ重いため息をついた。
どうか無事で。
父と、そして大切な末息子を思った。













右京の外れには、大きな邸があった。
すでに寂れ、住む者はない。

男は眼前に横たわる子供を冷ややかな目で見下ろした。
腕と足を縄で縛られ、目は布で覆われている。
幼い子供に酷い仕打ちだとは、男は少しも考えなかった。

ザッ。

戸口に人の気配を感じ、男は顔を上げた。
明るい月に照らされた老人は、険しい顔で男を見据える。

「・・・・安倍晴明か」

老人と思えないほどに苛烈な視線が、男を射抜く。

「わが孫を引き取りに来た」
「ただでは返せん」

男は転がしていた幼子を手元に引き寄せた。
気を失っているのか、幼子はぴくりとも動かない。
その姿に、晴明の背後から燃えるような闘気が立ち上った。

「・・・紅蓮」

晴明は小声で紅蓮を制す。
ここでことを荒立てれば昌浩に危害が及ぶ。
何より神将は人を傷つけてはならないのだ。

「俺の願いを聞け。そうすればこの子供は返してやる」
「・・・願いとは」
「道長を殺せ!!」

晴明は眉を寄せた。
そうか、この男。
どこかで見たと思えば、以前は貴族だった男ではないか。
道長と敵対し、追い落とされた哀れな男。
それで道長を恨んだのか、害しようとしたのか。
そのために邪魔な晴明を黙らせるため、最愛の孫を盾に取って。

「断る」

晴明はキッパリと言い捨てた。

「この晴明が、お前のような男の言いなりになると思うたか」
「孫の命が惜しくないのか・・・!?」

男は懐からキラリと光る物を取り出した。
そしてそれを、幼子の柔らかな頬に押し当てる。

「俺は本気だぞ・・・お前が言う事を聞かぬというなら、せめて道連れにこの子供を殺してやる!!」
「できんよ、お前には」
「何・・・っ!?」

激昂した男が、何事か叫ぼうとした。
しかし、すぐにその喉から引き攣ったような悲鳴が零れる。

「あ・・あああっ・・・・ぐわぁぁ・・・」

男は抱えていた幼子を放り出し、喉を掻き毟った苦しんだ。
月明かりを背に立つ老人の目が、怒りに燃えている。

「お前っ・・おまええっ・・何を、何を・・・」
「愚かな。陰陽師に喧嘩を売ればどうなるか、考えもしなかったのか」

冷え冷えとした声が男の苦しみをさらに煽る。
男の喉から零れる息が、ひゅうひゅうとおかしな音を立て始めた。

幼子を抱きとめた紅蓮が、顔を顰める。

「・・・晴明、死ぬぞ」

呼びかけた主は、何の反応も示さない。
紅蓮は、まずいと思った。
晴明にとって人一人殺すぐらいはわけないことなのだ。
けれど神将たちは、できればそれを晴明にしてほしくない。

「晴明・・・」

紅蓮は戸惑った。
力ずくで止めるべきなのか。

「・・・すけ・・・たすけ・・て・・くれっ・・・・」

近寄ってきた老人に、息も絶え絶えに男が縋りつく。
けれど晴明は無感動な目で男を見下ろすばかりだ。

「わしはな、身内に手を出されることが一番許せないんじゃよ」

晴明がすっと手を掲げた。
男がひぃぃっと悲鳴を上げる。

「晴明っ!」

紅蓮の制止の声と、男の悲鳴と、それら全てが激昂した晴明の耳を通り過ぎていく。
もう駄目だと、そう思ったその時。

「じいさま・・・・」

掠れた声が、縄を解かれた子供の口から零れる。
同時に晴明の動きがピタリと止まった。

「じいさま・・・ぐれ・・?」

幼子はこしこしと目元を擦った。
大きな瞳をぱちくりと見開いて、不思議そうに祖父と紅蓮とを見比べる。

「なに・・してるの?」

紅蓮に抱きかかえられている昌浩からは、晴明の背中しか見えない。
その目の前でガタガタと震える男も、祖父の険しい表情も、見えていなかったのだ。

「じいさま」

晴明の肩からみるみる力が抜けていく。
いきなり苦痛が消えた男は、悲鳴を上げながら邸の外へ飛び出していった。
化け物だと、叫ぶ声が遠ざかっていく。

「あいつ・・・!」

追おうとした紅蓮を、晴明が止める。

「紅蓮、もうよい」
「・・いいのか」
「よい。昌浩に怪我もないようじゃからな・・これで懲りたろう」

晴明はやれやれとため息をつき、末孫の傍に膝をついた。
昌浩を見つめる瞳には、理性が戻っている。

「昌浩、大丈夫じゃったか?」
「まさひろげんきだよ?」

何事が起きたのか、恐らく子供にはわかっていないのだろう。
きょとんと小さく首を傾げて、子供は無邪気な笑顔を見せた。

「露樹が心配しておるからの、帰ろうか」

晴明が手を差し伸べると、すぐに小さな手がそれを握る。
暗い道もさして恐れることもなく、昌浩は祖父に手を引かれるまま元気に歩き出した。

「・・・昌浩や」
「なぁに?」

あどけない孫の様子に、晴明は目を細めた。

「昌浩はじい様が怖いか?」

化け物と、最後に叫んだ男の声が離れない。
狐の子だの化け物だの、言われ慣れている言葉だ。
けれどもこの孫にだけは、昌浩にだけは、聞かれたくなかったと。

「どぉして?」

昌浩は心底不思議そうに笑う。

「じいさますきだよ?まさひろ、じいさまもぐれんも、だいすき」

そうか、と。
晴明は目を細めた。




曇りなき眼
その瞳に悪しきものが映されんことを
切に願うばかりだ。









































終。











******************************************************************************

悠那様リクエストで、ちび昌誘拐事件シリアスバージョンでしたv
なんか毎度謝っている気がしますが、こんな話ですみません!!苦笑 
悠那様、素敵なリクをありがとうございます〜!!
誘拐ネタは「逆巻く〜」でちょこっと書いたのですが、今回はまたちょっと違うバージョンで。
日頃ほのぼのばっか書いてるせいか、シリアスってなんだっけ状態な月子。これシリアスかな?(おいおい)笑
シリアスと言えば、紅蓮か晴明を苦しめたくなります(え) それを無邪気な昌浩が癒してればいいよ!にこ
そんな昌浩くんが、大好きですvおわります(笑) この小説は悠那様に限りフリーであります。