良薬口に苦し。
「晴明、少しは気をつけろ」
老人とは思えぬ軽い足取りで先を行く主に、付き従っていた玄武が渋い顔をした。
その傍らに顕現した六合が、同意だと言わんばかりに黙然と頷く。
彼が従える十二神将の二人にじとっと睨まれて、希代の大陰陽師・安倍晴明は肩を竦めた。
「少しつまずいただけではないか。全くお前たちときたら・・・」
「つまづいただけ?六合が支えねば石に頭をぶつけるところだったのにか?」
晴明には少し悪い癖があって、深く考え事をしていると足元が疎かになってしまうのだ。
いざ仕事の時などはそんなことは絶対ないくせに、こうして何事もない時にその癖は現れる。
先ほどつまづいた場所は、晴明が足を取られた石の他にもごろごろと転がっていた。
あそこに頭から突っ込んでいたらどうなったことやら。
子供の姿をした玄武は、心底六合がいてよかったと思った。
「とにかく、考え事ならば戻ってからすればいいだろう。歩いている間ぐらい集中して歩くべきとわれは思うが」
そんな真面目な顔で言われてもなぁ。
晴明はやれやれと小さく苦笑を洩らした。
「あぁ、父上、お戻りになったのですか」
出迎えた息子・吉昌に、晴明はうむ、と返事を返す。
そのまま奥に消えようとした父の背に吉昌は声をかけた。
「父上、そういえば昌浩がずっと父上を探していましたよ?」
「何?」
昌浩とは、晴明の息子・吉昌の三人目の息子であり、晴明にとっての末の孫だ。
もうすぐ着袴を控えた小さな孫を、晴明は大層可愛がっていた。
「昌浩が?何かあったんじゃないだろうな」
「いえいえ。父上の姿が見えず、暫くは愚図っていましたが、今は騰蛇殿が」
「紅蓮が・・そうか」
晴明はふわりと目元を和ませた。
十二神将が一人・火将騰蛇。
その身に纏う苛烈な神気と炎故に、同族からも恐れられていた存在。
長く凍てついた彼の心を溶かしたのは、小さな小さな嬰児だ。
あの炎を、一体誰が地獄の業火と称したのか。
まるで紅の蓮のようだと思った。だから願いも込めて、彼に紅蓮と名を送った。
それでも彼は長らく変わりはなく。
その紅蓮が、優しく目元を和ませる時が来るとは。
晴明は感慨深くため息をついた。
生あるものは、やはり変わることができるのだ。
末の孫が待っているであろう自室へ向かう途中、晴明はしみじみと昔を思い起こしていた。
あの紅蓮がなぁ。
そんな風に思い出に捕らわれていたから、気付かなかった。
「晴明、待て・・!」
「晴明!」
現れた主を見て紅蓮が声を上げたのと、気付いた玄武が声をかけたのはほぼ同時だった。
しかし時すでに遅し。
グシャ、ビリっと何やら嫌な音がした。
何かを踏んだらしく、晴明の身体が後ろに傾く。
それを顕現した六合が支え、事なきを得た。
いや、正確には事態は最悪の方向に転がったのだが。
紅蓮は、傍で大人しく座っていた幼子を見た。
大きな瞳が見開いて、固まってしまっている。
幼子、昌浩は、昼寝から目覚め、大好きな祖父がいないと愚図り始めた。
困った父親を見かねて紅蓮が顕現すると、昌浩は途端に上機嫌に笑い始めた。
舌ったらずな声で遊ぼうと強請られ、紅蓮はずっと晴明の部屋で昌浩の相手をしていた。
最近昌浩が夢中になっているのは、墨を使って色々な物を書くことだった。
もちろん筆さえもまともに握れていないが、本人はきちんと書けていると思ってるらしい。
顔やら手を墨で黒く染めながらも、ぐしゃぐしゃと書かれものを、「ぐれん」と指さされた時は、どうしようかと思った。
昌浩よ、お前の目に俺はどう映っているのかと。
しかしまぁ嬉しいのは嬉しいので、よく出来たなと小さな頭を撫でてやったのだ。
「じーさま、まだ?」
そろそろまた機嫌が悪くなってきた昌浩に、なんとか晴明不在を誤魔化そうと紅蓮はある提案をした。
「昌浩。晴明を書いたらどうだ?きっと喜ぶ」
「じーさま?」
「あぁ。書き終わる頃には戻ってくるさ」
「・・うん、じゃぁまさひろ、じいさま、かく」
そうして書きあがった最高傑作を、昌浩は晴明が戻ったらすぐ目に入るようにと、室の入り口に置いておいたのだ。
言わずもがな、今は晴明に踏まれ、見事に真ん中で破れてしまったが。
「六合、すまないな」
支えてくれた神将に礼を言って、晴明はなぜか固まっている孫と紅蓮を見た。
「紅蓮、それに昌浩も。どうした?」
てっきり喜んで出迎えてくれると思ったものを。
晴明は墨で汚れた孫の顔を見て、苦笑を洩らした。
「おぅおぅ、真っ黒ではないか。ん、これは・・・」
晴明は先ほど踏んづけて破れた紙を手に取った。
何やらぐしゃぐしゃと書いてあってよくわからない。
だが昌浩の様子を見るに、彼が何かを書いたものらしかった。
「昌浩、これはなんじゃ?」
何気ない一言は、言ってはいけないものだった。
見開かれた大きな瞳が唐突に揺れたかと思うと、昌浩は傍らの紅蓮にしがみ付いて大声で泣き始めた。
驚いたのは晴明だ。
「ま、昌浩?どうした、何があった?」
昌浩は、紅蓮にしがみ付きつつ泣き叫んだ。
「じぃさま・・・きらいー!!」
今度は晴明が固まる番だった。
「成程、それであの様子か」
六合と玄武から事の次第を聞いた十二神将勾陣は、呆れたように端座する主を見やった。
先ほどからああして座っているだけで、どことなくその背には哀愁が漂っている。
筆を持っているから何か書き物をしているのかと手元をのぞけば、紙には意味不明な線が並んでいるだけだった。
「あれは・・相当重症か?」
「そのようだ」
「で。肝心の昌浩はどこに?」
玄武はちらりと屋敷の奥を見やった。
「自分の室に。騰蛇がいるはずだが・・」
成程、そちらを窺えば、確かに同胞の気配を感じた。
「やれやれ。仕方がないな・・・」
勾陣は、傍らの同胞と顔を見合わせて、小さく苦笑を洩らした。
その逞しい腕に縋り付いて、幼子は長い間泣き続けていた。
彼が泣いているのは、一生懸命描いた似顔絵が無駄になったからではないと、紅蓮にはわかっていた。
「昌浩」
涙でぐしゃぐしゃの顔が、それでも呼び声に反応する。
「昌浩、落ち着いたら晴明に謝りに行こう」
「っく・・じぃさま・・・に?」
「あぁ。ちゃんとわかっているだろう?晴明に悪気はなかったと」
それなのに、大好きな祖父にひどいことを言ってしまったと。
幼子はその優しい心をそれ故に痛めていたのだ。
「じぃさま・・・ひっ・・・まさひろ、きらい・・なる・・?」
「あぁ、それはない。絶対にない」
「ほ・・ほん・・と・?・・ひっく・・」
「絶対だ」
あの晴明がこの末孫を嫌いになどなるものか。
「だから謝りに行こう。きっと今頃落ち込んでいるから」
幼子は、一生懸命目元を拭って、そしてこくりと頷いた。
それまで身動きしなかった主の肩が、ぴくりと震えた。
それが目に入るのと同時に、勾陣と玄武は近づいてくる気配に気付いた。
「晴明」
気付いているだろうに、晴明は勾陣の呼びかけには返事を返さず、何やらごそごそと何かを書いているようだ。
首を傾げてその背を見る同胞の横で、玄武は部屋の入り口へ目をやった。
ようやくまともに歩けるようになった幼子が、部屋へ一歩入ってはまた下がるという行動を繰り返している。
下がる度に隠行した同胞が、入るように促している声が聞こえる。
一歩。
部屋に足を踏み入れた昌浩は、背を向けた祖父に何を言えばいいのかわからず、もじもじとその場に立ちつくした。
さすがに見かねて主に一言物申そうかと勾陣が声を上げかけた時、突然晴明の手元から白い鳥が飛び立った。
鳥は驚いて目を瞠る昌浩の目の前に飛んできて、瞬きの後に一枚の紙片に成り代わった。
ひらひらと手元に落ちてきたそれを見て、昌浩が小さく首を傾げる。
紙には黒い墨で小さな子供の姿が描かれていた。
顔を上げると、祖父がにこにこと笑みを浮かべて手招きをしている。
昌浩は顔をくしゃくしゃにして、祖父の腕の中に飛び込んだ。
「じぃさまっ」
啜り泣きを始めた孫の背を、優しく摩る。
「じぃさま・・・まさひろ、きらいってゆって、ごめんなさい・・」
「いいんじゃよ。じぃさまこそ、せっかく昌浩が描いてくれたじぃさまを、破いてすまなんだなぁ」
昌浩はふるふると首を振った。
大好きな祖父の膝にちょこんと収まった幼子は、先ほどの紙片を掲げ問うた。
「じぃさま、これなぁに?」
「うん?昌浩がくれたお返しに、じいさまが書いた昌浩じゃよ」
「これ、まさひろ?」
「あぁそうじゃよ」
昌浩はしげしげと墨の絵を眺め、そして嬉しそうに笑った。
「あのねじぃさま、さっきどうしてとんでたの?」
「うん?あれは式文と言ってな・・・」
「あれ?これ何だろう」
祖父の書物の整理を手伝っていた昌浩は、古い書物の間から出てきた紙片を眺め首を傾げた。
何だか墨でぐちゃぐちゃと描かれている上に、真ん中で破けている。
どれどれと昌浩の手元を覗き込んだ物の怪は、それを見て夕焼け色の瞳を見開いた。
「ねぇもっくん。これ捨ててもいいのかな?」
「いや・・・」
物の怪は、小さく笑って首を振った。
「それは晴明にとって大事なものだから、そこに仕舞っておけ」
そうなんだ?と頷いた昌浩は、紙片を再び書物の中に戻した。
「全く・・・」
まだあれを取っていたとは思わなかった。
ちなみにあの後晴明は、あれだけ神将たちが忠告しても聞かなかったものを、歩いている時は足元に注意するようになった。
よほどに昌浩の嫌い発言が効いたようだ。
良薬口に苦しとはよく言ったものだ。
物の怪は大きくなった子供の背を見つめ、そっと微笑んだ。
初の陰陽師小説。
一度は言わせてみたい、「じいさまなんて大嫌い」。じいさまには最高によく効くお薬です。むしろ効きすぎ(笑)
早速神将結構登場させられて、満足であります(^▽^)